子どもが主体の保育をしたいと願って保育をしています。本当のところ本当に子ども主体の保育ができている園ははまだまだ少ないようです。国の臨教審に参加され教育要領を作成しておられる東大や白梅の先生方もそういう保育を現場に根付かせることに苦慮しておられるようです。
園でも先生方にアンケートを取ったところよくできている先生ほど自己評価も低いです。それはだんだん難しさがわかってくるということかなあと思います。また、保育のような抽象的なことをうまく人にお知らせするのは難しいですね。あえて言うなら以下の通りかと思います。
子どもの気持ち、子どもの願い
子どもの憧れ、子どものやりたい気持ち
子どもの理論的な理解、子どもの食べたい!子どものやりたい!
子どもの大きくなりたい‼︎
子どもの生きたい。
子どもの喜び、子どもの哀しみ
子どものいらだち
子どもの全てをみとめて
それで
心と、体と、知力、優しさ
何ものにも囚われない精神を
育てて
陶冶、即ちその子らしさを立ち上げて
社会に送り出すこと
とおもいます。
発達によってできることが増えてきます。
我慢したり人の身になって考えられるようになるのは大体年中くらいと言います。ちゃんと我慢できたり理論的に考えられるのは4歳ですが、2歳児(3歳になっている子)ぱんだ組では結構人の気持ちを察したりができるようになっています。「泣いている子はどうしてかなあな」「お外に行きたいのかなあ」などと体験を踏まえて考えています。色々と思い巡らしさりげなく側に行って関わり仲良くなろうとします。
お家環境もありますが、それにしても担当者は善く子どもたちを受け入れて、落ち着いて寄り添い無心に保育したのだと思われます。
そして子どもはすごいなあと感心します。 子ども自身の成長する力がそうさせたのです。
大人が干渉することが多いとなかなかそうはならず、欲求不満になったりしてしまいイライラ感が募ってしまったりして余裕がなくなります。そうなると噛みついてしまったり、押してしまったり、自分のことをできないで落ち着かなくなって張り合ってしまったりが起こってきます。
子どもの心を敏感に受け止めて、ちょうどいい間隔を持って接することが子どもの心や体の発達には欠かせません。
大人ばかり探すのは寂しいからかもしれません。側にそっと座ってあげる必要があるのかもしれません。
来年度も引き続き、高い専門性を持ち、子ども主体にしっかりと子どもを理解できて、引き受けられる先生がしっかりと育ち、どの子もゆったりと生活し育って行ける園になれるよう、理想を持って努力してまいりたいと願っています。